日本には船員要請のための2隻の帆船があるのをご存知ですか?
日本丸と海王丸という名前で、商船系の大学、短期大学などの学生は帆船での実習が義務付けられています。
乗船して航海実習を行いながら、各地のイベントなどにも参加してその美しい姿を披露したりもします。
帆船ですがエンジンも積んでいるので、機関の実習も行われます。
船を動かす基本は帆船でも普通の船でも変わらないので、普通に航海士になるための実習が行われて、それにプラスしてエンジンを使わずに風で走るための訓練が行われています。
帆を開いたり閉じたりする作業の途中で、マストに登ることが必要なのですが、昨年の4月、日本丸での登檣(マスト登り)訓練中に実習生がマストから落ちて死亡するという事故が起こりました。
で、最近事故の調査報告が出たそうで、小さく報道されていました。
これ見てると、船業界と一般の人で捉え方にかなり差があるのではと感じました。
命綱などをつけずに高所作業をしていたことが一般的にはありえないという感覚なんでしょうが、海外も含めて昇降の途中に命綱などをつけている帆船は少数派です。
理由はおそらく垂直移動時に命綱などを使用すると移動に時間がかかりすぎるからだと思われます。
ただ、作業中の落下防止は、ごく小型の帆船を除いてはほとんどの船で行われています。
事故当時も船関係の人たちのtwiterなどでいろんな意見がやりとりされていたのですが、その内容をとてもよくまとめているブログを見つけたのでシェアしておます。
個人的には船上での作業は陸上とは条件がかなり違っているので、陸上のそれも建築作業を主に想定している高所作業の安全基準をそのまま適用することが必ずしも100%正しいとも思いませんが、陸と海でどこがどう違うのかを合理的に説明できないと受け入れてもらえないだろうなあとは思います。
それと帆船実習はあくまでも船員さん養成の教育の一環で帆船乗りを育てるためではないので、本当に帆走実習とかマスト作業の実習が必要なのかという話も検証がいるのではないかなあと思ったりもします。
日本にある二隻の大型帆船のうち海王丸は研修生という呼び名で、学生ではない一般向けの乗船枠が数名分確保されています。
15年ほど前にぼくは名古屋から那覇まで、約一週間の航海に研修生として乗船しました。
研修生で乗ってくる人の多くは帆船というか日本丸、海王丸のファンという雰囲気で、帆船にそれほど興味のないぼくはみなさんの熱さにちょっと驚かされるところもありました。
航海中に研修生と船長の懇談会みたいな場が設けられました。
サロンでお茶などいただきながら船長にざっくばらんにいろいろと質問できるのです。
そのなかで(ぼくではない人から)
「マストは裸足で登ると決まっているみたいですけど、どういう意味があるんですか」
という質問が出ました。
日本丸、海王丸では操帆作業は基本的には裸足で行います。
マストにも裸足で登るのですが、マストを支えるワイヤーの間に渡されたロープを足場にして登るのでとてつもなく足の裏が痛いのです。
足が痛くて注意力が散漫になるので危なくないですか、というのが質問の趣旨でした。
答えは
「裸足のほうがロープが傷んでいるとかの状況を感触で分かるようになる。それとロープが傷まない」というものでした。
まあわからなくはないけど、帆船乗りを育てるわけじゃないからどうなんだろうなあ、と思っていたところ、船長さんはこう付け加えました。
「まあ確かに裸足が危ないというご意見は分かります。なんですが、もう何十年もずっとこのやり方を続けていて伝統があって、やり方を変えるとなるとOBのみなさんからもいろいろとご意見が出てくるので変えるのが難しいんです」
これを聞いたときには正直、かなり驚きました。
研修生のほとんどは日本丸、海王丸に好意を持ってはいますが外部の人間です。
それに対して、自分たちの教育プログラムの根拠が明確ではないことを普通にしゃべってしまってると。
たとえ公式ではなく個人的な発言だとしてもちょっとどうなんだろうなあ。
帆船実習が船員教育に必要かどうか、それを判断するだけの情報をぼくは持っていません。
ぼくは帆船が好きなので、日本丸や海王丸がなくなって欲しくはないし、帆船での航海が教育に役立つ要素もあると思っています。
けれどただ言うだけではなんの説得力もないんですよね。
帆船実習が大切で必要だと言うのなら、内輪だけではなく外の社会でも通用する言葉やロジックがなければ、なにかのキッカケで批判が起きたときに反論できないんじゃないかなあと思っていたのでした。
それからずいぶんと経って、死亡事故が起こりました。
事故の経緯や原因、実習プログラムの妥当性が検証されていて、それが終わるまでは日本丸と海王丸はセイルを開くことができません。
自分たちが行っていることの価値や意味。
それを他人に正しく伝えるにはどうすればいいのか。
そのことをぼくももういちど考え直しています。