海と劇場、ときどき本棚

2018年の7月に爆誕した何をするのかを模索しつづける会社「ひとにまかせて」代表のブログです

「引きこもり」という言葉が生まれる前から引きこもっていた

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「引きこもり」という言葉が、いまみたいな意味で普通に使われるようになったのはそんなに昔のことじゃない。

調べてみると公的な統計が残っているのは平成に入ってから。

ぼくが初めてこの言葉を聞いた時期とほぼ一致する。

大学時代にサークルの部室で新聞かラジオで、こういう人たちを「引きこもり」と呼ぶようになったということを知って、ずいぶんと心がかき乱された覚えがある。

 

心が乱れたのは自分にもそういう要素があると感じたから。

というか、数週間くらいなら、そんなふうに部屋から出られず、誰とも合うことができなくことがよくあったから。

例えば、大学の授業だったり、友達との約束だったり。

行かなくてはならないことや、楽しみにしていたことなのに、どうしても家からでることができなくなることがよくあった。

 

まだ出かける時間まで余裕がある。

そろそろ出かけたほうがいい。

いま出ないともう間に合わない。

いまならまだほんの少しの遅刻ですむ。

そして、もう少しも間に合わないに変わる時の絶望。

自分が家からでられなかった次に起こるのは、部屋の電話がなること。

いまでも電話がキライなのは、ぼくにとってはとても苦しい記憶と結びついているから。

 

ぼくが最後の最後でギリギリ踏みとどまれていたのはお芝居があったから。

そのころから知り合いの学生劇団の照明をやったり、プロの舞台にお手伝いで関わったりしていて、それだけはどんなに心がツラいときにでも出ていくことができたのです。

作品を作る面白さや楽しさがそこにいたるまでの辛さをかろうじて上回っていたのと、ぼくひとりがバックレることで、沢山の人に迷惑をかけることもよくわかっていたので。

他のたくさんのことに不誠実だったぼくが、たったひとつ誠実でいられたのが「舞台」という場だったから。

(あっ、でも数回はやらかしてますが…)

 

「引きこもり」という言葉を知る前からぼくは引きこもっていて、それが名付けられてしまったことがなぜかとてもショックでした。

自分のなかの秘密が白日のもとにさらされてしまったみたいで。

 

そして自分をコントロールしきれないのはいまでもあまり変わっていません。

あまり前触れもなく突然スイッチが切れて、ものすごく無気力になってしまうときがあります。

人と合ったり、話をするのもとても億劫になりるのです。

でも、本当はひとりでいると精神状態がなかなか上向きにならないこともわかっています。

 

フィリピンから帰ってきて、劇場に行くこともなくて家で仕事をしていたので、実はここしばらく引きこもり状態でした。

そのせいでいろんなことも進められなくて、いろんな人に迷惑をかけたり不安に思われたり。

今日、ちょっとしたイベントに行きました。

いまのコンデイションだと知らない人が大勢いる場に行くのはキツイかなと思っていたのですが、実際に出かけてみるとそんなこともなく。

むしろ、スイッチ入ったみたいです。

人と会うのはツラいんだけど、それでも人のなかに入って行くことでコンデイションは良くなる。

この頃ではそのことだけはわかってきたので、昔よりは少しコントロールできるようになったのかもしれません。