海と劇場、ときどき本棚

2018年の7月に爆誕した何をするのかを模索しつづける会社「ひとにまかせて」代表のブログです

小劇場からの出口

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演劇関係者の端くれなので、twiterやSNSなどでつながっている俳優さんや演出家さん、もちろんスタッフも大勢います。

そんなわけで、毎日のように公演の告知とか稽古場のレポートとかを目にします。

「いままでに最高の作品!」

「こんなに熱量のある稽古場はこれまでなかった!」

「毎日どんどん芝居がよくなってます」

みたいな言葉がタイムラインに次々と流れてきます。

そんなに面白い作品が次々と生み出されてるのって思うかもしれませんが、おそらく本当。

 

ぼくは一年間にリハーサルなどをチラッと見るものも含めると20〜30本ほどの舞台作品を目にしますが、そのほとんどは面白いです。

プロの作家と演出家と俳優が揃ってキチンと作っている作品は、好き嫌いはありますがたいていは文句なく「面白い」と言えるレベルは超えています。

自分が関わっていない作品でも、演出家や俳優の顔ぶれを見れば、面白くなるかどうかの見当はおおよそつきます。

作品作りに真摯なキャストとスタッフ、プロデューサー。

そんな人たちが揃っていたら、面白くならないわけがないのです。

演劇を見ない人には意外かもしれませんが、日本は演劇の裾のがとても広い国です。

「小劇場」と呼ばれる商業的には難しいプラットフォームがあり、毎週のように何本もの新しくて面白い舞台が幕を開けているのです。

 

先日、演劇界ではない人たちと話をしていて、たまたま映画の話で盛り上がりました。

興味があったのである質問をしました。

一年に何本くらい映画を見るのかって。

その場にいた何人かは20本くらいは見るって答えてくれました。

ついでにお芝居についても尋ねてみましたが、2,3年に一度くらいしか見ないって。

 

先日の語学留学のレッスンのなかで、フィリピン人の講師から好きな音楽や映画について話を振られることがよくありました。

トークをするための取っ掛かりとして、違う国で暮らしている同士でも、映画や音楽は共通の話題になるんですよね。

村上龍の「長崎オランダ村」という小説のラストで、イベントのために世界各国から集まった大道芸人たちが、打ち上げのキャンプファイヤーでビートルズの「Let it be」を歌うシーンがありました。

世界中から集まった文化や風習がまるで違う(そのためにイベント期間中はさまざまなトラブルに見舞われる)人たちが、ひとつの曲をみんなで歌うことでつながる。

そんなシーンでした。

 

音楽も映画も一度作られたコンテンツはいつでもどこでも再現することができます。

だけど演劇はそれができなくて。

いまこの瞬間も新しいステキな作品は次々と生み出され、上演され、そしてごく少数の人の目にしか触れることなく消えていくのです。

 

そのことをぼくは必ずしもネガティブにとらえているわけではありません。

観客と作り手が時間と空間を共有することでしか作品に出会えないからこそ、演劇というジャンルを愛しているところもあるのです。

イギリスの演出家ピーター・ブルックは「演劇は風に記された文字」と言ったそうです。

前後関係はわかりませんがぼくにはとてもしっくりくる言葉です。

演劇は映像として残されたとしても、劇場で見るのとは違うなにかになってしまうものなのです。

 

とはいえ、最近ではたくさんのいい作品が次々と消えていくのはもったいないと思うこともよくあります。

歳をとったからかもしれません。

演劇で暮らしている人たちがもっと報われてほしいと思うからなのかもしれません。

演出家や役者にとって作りたいものを自由に作れる代わりに経済的なメリットはない「小劇場」という場。

そこからプロの演劇人として生活していくための出口があまりにも少ないのです。

小劇場の公演でも経済的に回せるようにしていくのか、そこからの出口戦略を持つのか。

そこに答えを見たい出さないかぎり、すべての演劇人の頭の上を覆う重たい雲はいつまでも晴れないのですけどね。