海と劇場、ときどき本棚

2018年の7月に爆誕した何をするのかを模索しつづける会社「ひとにまかせて」代表のブログです

観客論

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「面白い」ってなんだろうとか「エンタメ」ってなんだろうとか、なんか考えちゃう今日このごろ。
そしてお客さんが期待するものを提供するのか、想像を超えるものを見せるのか。
演劇の面白さってどこにあるのかも考えてしまう。

 

押し付けになるのはいいことではないけど、理想を追い求めないと新しい表現なんて生まれない。

とはいえ、固定ファンのついている俳優や劇団にとって、ファンのイメージを裏切るのはリスクが高い。
作り手がその折り合いをどうつけるのかは難しいし、見る側も人によってまるで違う印象を受ける。
誰もがチャレンジを評価してはくれない。結果ではなくチャレンジそのものにマイナスな評価をするひとだってたくさんいる。
その評価のブレを作り手が飲み込めるかどうか。

 

ある意味でマッチングが上手くいってないからこそ、作り手と受け手でズレが生まれてるのだし、さらに言うとそれはPR自体の問題かも。

演劇というジャンルの幅の広さがここではトラブルの元。

 

そのあたりも含めて作品と観客、俳優と観客とのコミュニケーションをどうデザインしていくのかみたいなことはもっと注目されてもいいのかなと思う。

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リハーサル映像公開してます

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ゴールデンウイーク、何それ?って感じで劇場に籠もっています。

「即興演劇」(インプロ)というその場で物語を作る、少し変わった作品。

 

主催、製作サイドの考え方なんですが、演劇作品って内容がわかるような情報を出すのを嫌うところが多いのです。

作品としてキチンと完成したものを見てもらいたいので、未完成のものや細切れにしたもの、舞台美術や衣装の公開はNG。

なので、本番についている作品の内容についても書けないことが多いのですが、いま関わっている団体さんは情報は積極的に公開していこうというスタンス。

なので、本番前に本番と同じ条件で行う最終リハーサルをなんと全編公開しています。

 

自分が照明デザインをしている作品を映像で見てもらえる機会も少ないのでご覧になっていただけるとうれしいです。

即興演劇って何?というかたやそもそも演劇なんてみたことないという方もぜひぜひ。

ストーリーの2割くらいは台本があって8割位は即興です。

登場人物もその場で決まるシーンもあります。

どこが即興か分かりますか?

 


リハーサル公開】第14回公演「シュウマツの予定。」【舞台映像】

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旅公演の楽しさ

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今週末は茨城県のひたちなか市でお仕事をしています。

最近では少なくなりましたが、一時期は旅をしながらお仕事をすることがよくありました。

東京の劇団の地方公演について回るお仕事。

長いと三ヶ月くらいの旅暮らしになります。

いちばん多い時期だと、一年の半分くらいはホテル住まいだったこともありました。

 

今回の劇場はひたちなか市文化会館。

昔は勝田市文化会館だったと思います。

その頃にも何度かきたことがあります。

あるお芝居のツアーで来たときのこと。

劇場入りした初日、仕込んで本番をして会館近くのホテルに泊まりました。

翌日は夜公演。劇場には16時くらいに入ればOK。

しかしホテルは10時にチェックアウト。

 

時間を持て余した照明チームがどうしたかというと、大道具運搬用でツアーを回っていて、だけど公演のために搬入して空になった2tトラックで近くの海までドライブに行きました。

しかも主演女優も乗せて。

照明部、他セクションのスタッフ数名、そして俳優さん何人か。

もちろん、トラックなので座席に座れるの運転手入れて3人だけであとは荷台。

その頃はまだ下っ端だったぼくは本来なら荷台のはずなんですが、トラックが運転できるのがぼくだけだったので、主演女優さんを助手席に乗せての楽しいドライブになりました。

 

ぼくが若手の頃は、旅公演の合間にこんな感じで遊ぶことはよくありました。

移動日にキャンプ場を探してバーベキューをやったり。

移動の電車のチケットを払い戻しして、レンタカーを借りてドライブしながら移動したり。

いまでは移動日に制作が決めたスケジュール以外で移動することにいい顔をされないことも増えました。

まあわかります。

スタッフみんなでレンタカー借りて移動とか、事故って怪我でもされたら即公演中止になりかねないですから。

プロ意識が足りないと言われると返す言葉はありません。

とはいえ、長い旅だと心のコンディションを維持するのも難しいのです。

だからちょっとした気分転換は大目に見てもらいたいなあと。

 

キャストとスタッフの距離感も変わりました。

東京での公演は期間が長くてもキャストとスタッフが関わることはそれほどありません。

だけど旅公演だと、キャストのみなさんも本番が終わったあと時間があることも多いですし、長い旅を同じスケジュールで回っていると自然と仲間意識が生まれてきたりもします。

以前は、キャストとスタッフみんなでボーリング大会を開いたりとかもよくありました。

移動の電車でキャストとスタッフが隣同士になって話をしたりとかも。

でも、最近はそういうのはあまり喜ばれなくなりました。

キャストとスタッフとの関わりも少なくなってきたし、制作サイドが意図的に関わる機会を少なくしたりもしています。

制作チーム主催でキャストさんとの飲み会とかはいまでもよくありますが、席が分かれていたりして、キャストとスタッフみんなで楽しく遊んだり飲んだりはあまりしなくなりましたね。

いい意味では職分をキッチリ守っているのかもしれません。

見方を変えると、人間的な関係性のない同士で作品を作るのってどうなのという感じもします。

 

もちろん、俳優も舞台スタッフもただの職業です。

その職分をわきまえることも大切。

ただ同時に同じ作品を作り上げる仲間でもあるし、長い旅公演を共にする同士でもあるのです。

数年前に旅公演に参加した作品の再演が決まりました。

旅中に何度か飲みに行った俳優さんからすぐに連絡が。

今回は一緒に行けるのって。

こういう連絡をもらえるのは本当に嬉しいです。

キャストとスタッフの間のこういう距離感はなくして欲しくないなあと思ったりします。

たしかにお仕事ですがただのお仕事ではないんだよなあ。

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感情や関係性を照明で表現する

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舞台照明デザインについてもう少し書きます。

これまででいちばん尖った照明デザインをしたのは、5年ほど前にやった「モグラのヒカリ」という作品でした。

なんども一緒に作品を作ってきて、かなり信頼してもらっている演出家さんとのお仕事だったので、少し攻めてみようと。

そしてこの時期、ただ同じような仕事を繰り返すことに少し疑問を感じている時期でもありました。

そんなこともあって、チャレンジできる環境が揃っていたこの作品はいつもと違うものにしたいと思ったりもしていたのです。

 

このお芝居、主人公は目の見えない小説家。
人気タレントでもある彼と周囲の人々との関係性が物語の核になります。

一見、彼のことを丁寧に扱っているようにみえる周囲の人々ですが、それはあくまで仕事の上での関係性。

彼のことを心から大切に思っている人は誰なのか、みたいなお話。

 

目の見えない主人公の存在と周囲の人たちとの距離感を表現するために、ちょっと変わった照明デザインを考えました。

主人公が舞台上にいるあいだは、舞台上が茶色い光に包まれるというものです。

目が見えない彼と周囲の人が見ている、感じている世界の違いを光の色合いで表現したのです。

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同時に、周囲の人との距離感の変化でも舞台の色合いが変わっていきます。

周りの人の意識や興味が主人公から離れていくと、その人の周辺はリアルな色合いに変わっていきます。

主人公と周りの人が本当の意味でつながっている間は舞台全体が茶色い非リアルな色合いで染まりますが、関係が途切れると主人公の周りだけ彼の色が残り、他の部分は現実的な見え方に戻ってしまいます。

これは一般的演劇の照明デザインとは少し違うやり方です。

普通は時間や空間というリアルや要素をベースに明かりを決めていきます。

けれどその作品では「感情」と「関係性」をメインに考えて照明をデザインして行きました。

その時の演出家の作品は、一見リアルで当たり前の風景のその奥にどこか不思議な雰囲気、違和感、人間の妄執みたいなものが隠されているものが多いのです。

「モグラのヒカリ」もそんな普通の奥に潜んでいる笑いや悲しみをとても繊細に取り扱っう作品だったので、リアルな感情と隠された不合理な気持ちを見ている人に感じてもらいたくて、そういう照明デザインにしてみました。

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下手側(写真左)と上手側(写真右)、同じ空間や時間軸だけど感情の方向性で違う見え方をしている


照明デザインの出来は個人的にはとても満足しているし、自分のやりたいことができたなあと思っています。

でも観た人にとってどうだったのかはいまだにわかりません。

照明について言及していた人があまりいなかったので、そういう意味では成功だったのかもしれません。

演出家にも照明デザインの意図と具体的なディレクションについて事前に説明して、リハーサルでチェックしてもらったうえでOKはもらっているので、作品から外れてはいないとは思うのですが。

 

それでも、ぼくの意図が見ている人に伝わったかどうかはわかりません。

というかおそらく伝わっていません。

どっちかというと伝わらないほうがいいと思ってたりもします。

ぼくの狙いや表現が観客に印象には残らず、それでいて作品そのものの印象が心に残る手助けになる。

そんなのがぼくが思う理想の照明デザインです。

その理想のなかで最大限攻めてみた、強い表現にチャレンジしてみたのがこの作品だったのです。

 

この作品の映像は残っていません。

最近のお芝居はDVD化することを見越して撮影してもらうことが多いのですが、この企画は一度きりの特別なものだったのでDVDを販売する予定がありませんでした。

またDVDを作る予定がなくても、資料用に撮影することがほとんどなのですが、様々な事情でそれもなかったのです。

なので、この作品を見ることはもうできません。

言葉で照明デザインを語るのは難しいし、写真で一瞬だけを切り取っても違う伝わり方をしてしまいます。

劇場で観てもらうのが一番なのですが、それが無理ならせめて映像で見られればいろんなことが伝わるとは思うのですが。

作品としてもとても素敵だったし、出演者もみんな魅力的な素晴らしい作品だったのでとても残念なのですが、そんなもったいなさもまた「演劇」なのかなとも。

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はみ出す俳優

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昨日のブログで書いた「舞台照明デザイン」についてもう少し具体的に書いてみようかなと思います。

2017年の12月に日本スタンダップコメディ協会会長、清水宏さんのトークライブの照明デザインをやらせていただきました。

清水さんは大学時代からの知り合い。

俳優のような、芸人のような、なんか世間のカテゴリーには収まらない活動をずっと続けてらっしゃいます。

最近では海外で地元の言葉でコメディーをやるというのをライフワークにしています。

これまでもイギリス編やアメリカ・カナダ編の凱旋ライブの照明をやらせてもらってます。

他にも中国とか韓国でねライブをやっています。

そしていまはスタンダップ・コメディという日本ではあまり馴染みのないジャンルを主戦場に定め、日本スタンダップコメディ協会を立ち上げて周囲を巻き込んでライブを企画ししています。

今回はそのロシアからの凱旋ライブでのお話。

natalie.mu

このライブは清水さん一人しか出演せず、ただひたすらしゃべりつづけるだけの構成なので、お芝居などと違って照明もそれほど変化させたりすることもなく、ただ出演者が明るく見えるようにしてあるだけでした。

まあこの「変化しない」「ただ明るくするだけ」を決めるのも照明デザインではありますが。

 

二日間の本番の初日を照明ブースから見ていると、清水さんの移動範囲がぼくがイメージしていたのよりもかなり客席寄りになっていました。

普通、俳優さんやコメディアンの方は舞台の客席よりギリギリまでは使いません。
舞台は明るくて客席は暗いので足元が危ないからです。
また舞台前ギリギリだと照明の照らす角度がよくなかったり、当てられる台数が少なくなったりで少し暗くなってしまうからです。

しかし清水さんは、熱量高く演じるタイプ。
リハーサルのときはそうでもなかったのですが、本番になると動きが変わってきて、舞台の踏面ギリギリまで出てきて、前のめりにお客さんと相対してしゃべります。

当然、姿勢によっては時々顔への照明が少し暗くなる瞬間が出てきます。
シーンによっては明るくなったり暗くなったりを頻繁に繰り返してしまっていました。

これはかなり見にくいので本番が終わったら暗いエリアをフォローするライトを追加しようと考えて、サポートで呼んでいた照明さんに本番終了後の作業内容を指示しました。

 

けれど5分ほど見ていて気が変わりました。
普通の俳優さんはそういうところには立たないのです。
そこまで前のめりにはならないのです。
だけどそこを外れてしまうのが、エリアからはみ出してしまうのが清水宏さんというアーティスト。

彼が動くエリアを全て同じような明るさにするのは技術的には簡単ですが、エリアからはみ出す清水さんのエネルギーを視覚的に表現するにはあえて暗い場所を残しておいたほうがいいんじゃないかと。
むしろ観客に違和感や見にくさを感じてもらったほうが清水宏の生き様が伝わるのではないかと。

 

そう考えてさきほど出した指示もキャンセル。

理由を話すと照明チームのみんなは納得してくれました。

まあそんなことはお客さんには関係ないのかもしれません。

もしかすると顔が暗くなって見にくいと思った人がいたかもしれません。

でもそういうことじゃないんです。

ただ明るくするだけじゃなくて、暗さを残すこと、明かりが当たらない場所をつくること。

こういうのが舞台照明デザインです。

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「なにをしている人かわからない」って言われた

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友達に「他の人になんて紹介したらいいのかわからない」と言われました。

確かに。

そもそもフリーランスでいまは会社経営だけど、どういうジャンルで暮らしているのと言われるとなかなか説明が難しい。

一番わかりやすい肩書で収入のベースになっているのは「舞台照明ディレクター」だけど、すでにこの仕事が普通の人には全くイメージしてもらえない。

それ以外に「帆船乗ってます」とか「船乗ってます」とも言うけど、これもわかりにくいしいわゆるプロ船員でもないので、説明がものすごくめんどくさい。

この間は、「わかりやすく言うと、帆船で大西洋を横断したことがあります」って説明したけど、ちっともわかりやすくないよね、これ。

このジャンルでも自分がやりたいことをひとことで表す肩書を考えてて、最近では「航海デザイナー」って試しに言ってるけど、どうしようもなく胡散臭い。

そしていま本屋を始めようと準備してるんです。

初対面でそんなこと言われてもなんだかわからないよね。

逆の立場なら絶対に!?ってなるわ。

 

これはパラレルキャリアってやつかと思ったんだけど、パラレルキャリアは夢や社会貢献のためのもので収入を得ることが目的ではないらしい。

まあ夢の実現ではありますが、収入も得たいんですよね。

海とか本とかでも。

まあ舞台も海も本も、パラレルキャリア的なものをひっくるめて事業化することを目指して会社を設立したんですけどね。

今年は舞台照明以外でもちゃんとお金を稼がないと…

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やりがいを搾取されてきて30年経ちましたが、

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最近、こんなニュースがありました。

news.livedoor.com

実は、直接、間接にお仕事で関わりのある事務所さんです。

個人的に面識のあるプロデューサーさんも何人もいるので少し言及しにくいのですが、この会社だけの話だけではないし、単純にいいとか悪いとか決めつけられることでもないので少し書いてみたいと思います。

 

リンク先の記事では詳しく書かれていませんが、裁量労働制を適用しながら実際には上司から労働時間などの指示を受けていて、結果的に長時間労働なのに残業代が支給されない状況だったことを労基に訴えられたという顛末だそうです。

確かに、問題のある労働環境だったとは思いますが、たまたまそのことをアピールした人がいたからこの会社が問題になっただけで、まあこの業界、長時間労働が常習化してしまっています。

そしてそれに対して必ずしも正当な対価が支払われているわけでもありません。

 

これは上流の制作会社、芸能事務所からウチラみたいな下っ端の技術屋さんまで、エンタメ業界全体の宿痾みたいなものです。

普通の会社というのは基本的にはお金を稼ぐためにみなさん働いているのだと思います。

職業的なプライドはあるとは思いますが、自社の取扱製品に職業意識を超えた愛着を持っている人は少ないのではないでしょうか。

一方で、芸能関係で働く多くの人は自分の仕事に特別な愛情や思い入れを持っていることが多いのです。

意識しているかいないかにかかわらず、業界、あるいは会社やそのなかのある部署全体がそういう雰囲気に染まってしまっていると、いわゆる「やりがい搾取」状態になってしまうこともよくあります。

ぼく自身についての個人的な感想だと、自分みたいな人間がこの歳になってもなんとかこの世界で仕事をさせてもらえているだけでありがたいと思う気持ちもなくはありません。

確かに、やりがいを搾取されてきたのかもしれませんが、だからと言って、そのことかは必ずしもネガティブな話だけでもないのですけど。

 

もちろん、最近では労働環境についての取り組みはいろんな場面で行われています。

というか、労働時間を短くする工夫や、子どもができてからでも女性が仕事のできる環境を作っていかないと、もう業界全体が回っていかないのではと個人的には感じています。

これまでは多少条件が厳しくてもこの業界で働きたいというひとはたくさんいました。

極端な言い方をすると、業界の風習についていけない人が淘汰されて、適正な人数に収まっていたとも言えるのです。

でももうそれでは必要な人材を確保できないところまで来ていると思います。

アメリカやヨーロッパでは技術スタッフの労働時間や業務内容は契約で明確に定められていたりもします。

日本的な仕事の進めかたから見るとやりにくいところもあるのですが、日本でも少しずつそういうことを明確にしていかないといけないとは思います。

新しい人が業界に入りやすいように、そして経験や技術を持った人が流出しないような環境づくりを考えていかないといけないのです。

 

ただし難しいのは、全ては、少しでもいいモノを作りたいという、アーティストから技術スタッフ、制作スタッフみんなの思いから来ているのです。

時間や予算は無限にあるわけではなく、様々な条件な枠組みのなかで少しでもいいものを作りたいという思いが強ければ、どうしても働く条件としては悪くなってしまいます。

それを単純に、長時間労働と否定することはできませんが、いいものを作るためだから仕方がないと一概に認めてしまうことも違うと思います。

ではどうやってその折り合いをつけていくのか。

そういうことを真剣に考えていかないと行けない時代になったのだと思います。

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劇場が100以上ある街

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ちょっと写真が見にくいのですが、地図にマークしているのは全部劇場です。

端から端まで30分ほどで歩けるエリアに150ほどの、それもほとんどは定員200人以下の小劇場が建ち並んでいます。

日本ではありません。韓国のソウルにある「大学路」(テハンノ)という街です。

4年ほど前に仕事で韓国に行った時、丸一日オフ日がありました。

そのときに通訳さんに案内してもらったのがこの街でした。

 

ソウルに学生街から生まれた演劇の街があることは知っていたけれど、100以上の劇場があるというのはちょっと盛りすぎなんじゃないかと思っていました。

だけど実際に行ってみると聞いていた以上で。

街そのものの雰囲気は原宿とか青山みたいな感じ。

少しオシャレなカフェやショップが並んでいます。

そんな街のあちこちに劇場が散りばめられています。

 

劇場の多くは雑居ビルのなかにあるのですが、ビルの前にはそれぞれの劇場のチケットブースが出ていますし、あちこちの劇場のチラシを見ながらチケットが買えたり、当日券を安く買えるようなチケットセンターもあって、気軽にチケットを買って劇場に入れるようになっています。

また街中に演劇にまつわるパブリックな場所がたくさんあるのも印象的でした。
劇場のロビーがオープンカフェのようになっていたり、演劇資料の図書館があったり。
劇場と街の境目がゆるやかで、演劇と日常の距離が近いのはすごくステキだと思いました。

 

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昨日のブログで書いた「小劇場の出口」

そのひとつの形がこの街にはある気がするのです。

 

日本の小劇場は劇団が公演の主催になるケースがほとんど。

劇場を借り、スタッフを雇い、公演日程を決め、チラシを作り、チケットを販売します。

赤字になる公演も多いですが、黒字になったとしても主催の劇団に十分な利益が出ることはあまりありません。

 

ソウルの制作形態は逆で、劇場が公演を企画します。

劇団に制作費を払い公演を行います。

利益も取る代わりにリスクも劇場が追うのです。

なのでソウルの演劇シーンにおいては、日本の小劇場では一般的な「ノルマ」という概念はなく、逆に役者も少額とはいえギャラをもらって舞台に立つのが当たり前らしいです。(最近ではそうではないケースもちらほらあるそうですが)

 

人気がある作品は再演を繰り返したり、ロングラン公演になったりするケースも珍しくないとか。
実際にぼくが見た作品も10年ほど続くロングラン公演でした。

チケットは2000円くらい。

キャパ150くらいの劇場で、さすがに満員ではありませんでしたが、それでも100人ほどのお客さんは入っていたと思います。

自分が関わった作品があたってロングランになれば、それだけで生活していくことも十分に可能。

またそうした人気のある作品には、大きな劇場のプロデューサーなども頻繁に足を運ぶので、役者や演出家、脚本家などにとっては様々な形でステップアップするチャンスを得やすい環境があるそうです。

 

もちろん、いい話だけではなくて、そういう環境があだになって、コメディーやミュージカルなど一般受けする作品を作る団体が増えて、芸術性の高いものや前衛的なものを作ろうとする人たちが減っているという話も聞きました。

大学路自体が元々は韓国の民主化を目指す学生の声からいまのような街になったという経緯があるのですが、いまではそういう方向のエネルギーを街から感じることはありませんでしたる

 

一般の感覚だと、映画やテレビドラマに出ることや大きな劇場に進出することが俳優としてのステップアップのように思われるかもしれませんが、実際にキャパが200人程度の小さな劇場のほうが、作品としては魅力的なものが多いのです。

ただそれだと経営的に厳しいことが多く、日本では俳優として食っていくには映像か商業演劇に行くしかない状況。

けれどここでは小劇場という世界の中で職業俳優として生きていくロールモデルがあることは素晴らしいと思うのです。

 

ぼくは今まで日本(というか東京)の小劇場演劇は質、量ともに素晴らしいと思っていました。もちろん、今でもその考えは変わりませんが。
街のあちこちに小さな劇場がひっそりと息づいていて、時折その暗がりからエネルギーを持った人たちが現れてくる。
そんな東京という街と演劇との少し特別な関係が大好きです。

 

その一方で、舞台で生きていくという夢を見続けるために、たくさんの人がとてつもなく努力し続けているのも見て来ています。
小劇場の役者さんたちを見ていると、どうしてそんなにがんばれるのかと切ない気持ちになることもしょっちゅうあります。

ソウルの演劇事情が最高というわけではありません。

だけどそこには、東京で役者として生きたいと願う人たちがもっとハッピーになれるヒントがたくさんあるのではないか、大学路を歩きながらぼくはそんなことを考えていました。

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小劇場からの出口

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演劇関係者の端くれなので、twiterやSNSなどでつながっている俳優さんや演出家さん、もちろんスタッフも大勢います。

そんなわけで、毎日のように公演の告知とか稽古場のレポートとかを目にします。

「いままでに最高の作品!」

「こんなに熱量のある稽古場はこれまでなかった!」

「毎日どんどん芝居がよくなってます」

みたいな言葉がタイムラインに次々と流れてきます。

そんなに面白い作品が次々と生み出されてるのって思うかもしれませんが、おそらく本当。

 

ぼくは一年間にリハーサルなどをチラッと見るものも含めると20〜30本ほどの舞台作品を目にしますが、そのほとんどは面白いです。

プロの作家と演出家と俳優が揃ってキチンと作っている作品は、好き嫌いはありますがたいていは文句なく「面白い」と言えるレベルは超えています。

自分が関わっていない作品でも、演出家や俳優の顔ぶれを見れば、面白くなるかどうかの見当はおおよそつきます。

作品作りに真摯なキャストとスタッフ、プロデューサー。

そんな人たちが揃っていたら、面白くならないわけがないのです。

演劇を見ない人には意外かもしれませんが、日本は演劇の裾のがとても広い国です。

「小劇場」と呼ばれる商業的には難しいプラットフォームがあり、毎週のように何本もの新しくて面白い舞台が幕を開けているのです。

 

先日、演劇界ではない人たちと話をしていて、たまたま映画の話で盛り上がりました。

興味があったのである質問をしました。

一年に何本くらい映画を見るのかって。

その場にいた何人かは20本くらいは見るって答えてくれました。

ついでにお芝居についても尋ねてみましたが、2,3年に一度くらいしか見ないって。

 

先日の語学留学のレッスンのなかで、フィリピン人の講師から好きな音楽や映画について話を振られることがよくありました。

トークをするための取っ掛かりとして、違う国で暮らしている同士でも、映画や音楽は共通の話題になるんですよね。

村上龍の「長崎オランダ村」という小説のラストで、イベントのために世界各国から集まった大道芸人たちが、打ち上げのキャンプファイヤーでビートルズの「Let it be」を歌うシーンがありました。

世界中から集まった文化や風習がまるで違う(そのためにイベント期間中はさまざまなトラブルに見舞われる)人たちが、ひとつの曲をみんなで歌うことでつながる。

そんなシーンでした。

 

音楽も映画も一度作られたコンテンツはいつでもどこでも再現することができます。

だけど演劇はそれができなくて。

いまこの瞬間も新しいステキな作品は次々と生み出され、上演され、そしてごく少数の人の目にしか触れることなく消えていくのです。

 

そのことをぼくは必ずしもネガティブにとらえているわけではありません。

観客と作り手が時間と空間を共有することでしか作品に出会えないからこそ、演劇というジャンルを愛しているところもあるのです。

イギリスの演出家ピーター・ブルックは「演劇は風に記された文字」と言ったそうです。

前後関係はわかりませんがぼくにはとてもしっくりくる言葉です。

演劇は映像として残されたとしても、劇場で見るのとは違うなにかになってしまうものなのです。

 

とはいえ、最近ではたくさんのいい作品が次々と消えていくのはもったいないと思うこともよくあります。

歳をとったからかもしれません。

演劇で暮らしている人たちがもっと報われてほしいと思うからなのかもしれません。

演出家や役者にとって作りたいものを自由に作れる代わりに経済的なメリットはない「小劇場」という場。

そこからプロの演劇人として生活していくための出口があまりにも少ないのです。

小劇場の公演でも経済的に回せるようにしていくのか、そこからの出口戦略を持つのか。

そこに答えを見たい出さないかぎり、すべての演劇人の頭の上を覆う重たい雲はいつまでも晴れないのですけどね。

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自信とかを根こそぎなくしても舞台で生きる

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フリーランスで舞台照明のお仕事をしているのと、ぼく自身の性格もあって、割と幅広いジャンルで、そして一流のプロレベルからアマチュアレベルまでと上から下まで、いろんな作品に関わります。

最近では大学で演劇や音楽、ミュージカルなどを教えるところも増えたので、そういう学生さんの発表会やショーケースを目にすることも増えました。

 

大学の発表会などに関わっていると、いろいろと考えさせられることもあります。

学生さんたちはみな表現者になることを目指し、それぞれ夢や自信もあって大学で学ぶことを選択したのだと思います。

そして、同じ学校で同じ時間を過ごしているはずなのに、舞台に立ったときにひとりひとりがあまりにも違って見えることがあって。

 

技術が理由ならばまだ納得できます。

歌、ダンス、演技。

これからでも時間をかけることで成長できる可能性があることならば、努力すればいいんだと。

(まあそれでも絶望するくらいの差を感じることはありますけど)

 

でも目に見えないもの。

オーラや雰囲気と言われているもの。

ぼくはそんなものはないと思っていました。

というか、ない方がいいと感じていました。

そんな先天的な、努力で埋められないものが人間の評価の基準になってほしくないって。

 

でも残念ながらいるんです。

同じ年頃で、少なくともここ何年かは同じ環境で同じものを見て過ごしてきているはずなのに、ただ立っているだけで、動いているだけで、断然人目を引いてしまう人は。

顔立ちやスタイルが際立っているわけではなく、歌やダンスのスキルが圧倒的なわけでもなく。

それなのに人を引きつける力のある人が。

 

多分、舞台に立つことを志すような人たちだから、誰しもがそれまでは周囲から目立つ存在だったのでしょう。

そういう人が集まったなかでも一際、輝いて見える人。

そんな人もいたりするのです。

 

ある卒業公演の最後に、教授がこんなことを言っていました。

 

ここに来るような人はみんな自分のなにかに自信をもって来ているはずです。

歌だったり、ダンスだったり、あるいは舞台への愛情だったり。

でも大学にきてそれぞれ挫折を味わったはずです。

自分が持っていた自信を打ち砕かれたと思います。

でも、そこから始まるんです。

 

ちっぽけなプライドが粉々にされて、そこからどう生きていくのか。

どうやって、生き残っていくのか。

そのことに真剣に悩んでからが、本当に舞台で生きるということ。

そんなふうに思うのです。

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